はじめに

ディエゴ・シメオネが就任した2011-12シーズンから2023-24シーズンまでの13シーズン、アトレティコ・デ・マドリードはラ・リーガで一度も5位以下に沈んでいない。リーグ優勝2回、チャンピオンズリーグ決勝2回。だが数字以上に、このクラブが対戦相手に残すのは独特の感覚だ。「強かった」だけでは足りない。「やりづらかった」が、いちばんしっくりくる。アトレティコとは、そういう感想を相手に残すクラブである。

もちろん、強いから嫌なのではある。だが、それだけでは説明がつかない。アトレティコが厄介なのは、相手が心地よく前進し、心地よく保持し、心地よく試合を進める条件そのものを削っていくからだ。真正面からねじ伏せるのではなく、相手のリズムを壊す。その不快さこそが、このクラブを“嫌な相手”にしてきた。

このクラブの強さは、しばしば闘志や魂という言葉で語られる。その整理は間違っていない。ただ、感情が抽象論で終わっていない点にこそ核がある。反骨心はファン文化へ変わり、やがて戦い方にまで落とし込まれた。だからアトレティコの嫌らしさは偶然ではない。監督や選手の個性だけでは説明しきれない、もっと根の深い何かに支えられている。

その正体を考えるには、このクラブが何を誇りとしてきたのかから見なければならない。

第1章 ── 勝者の物語の外側から

アトレティコには、華やかな勝者のクラブとは少し違う自己像がある。エリート、権威、絶対的中心。そうした言葉よりも、泥くさい、庶民的、しぶとい、報われない──といった語彙が似合う。長くこのクラブには、そうした感情のまとわりつく空気があった。

コルチョネロ(Colchonero)という呼び名も、その空気と無関係ではない。語源の詳説は別稿「コルチョネロの起源」に譲るが、大事なのはその俗っぽさや生活感まで含めて愛称として引き受けてきたことにある。アトレティコは、洗練された響きだけで自分たちを飾るクラブではなかった。

マドリードという都市の中で見ても、その立ち位置は独特だった。レアル・マドリードが権威や成功の側に置かれやすかった一方、アトレティコはより民衆的で、より傷を抱えた側として語られてきた。もちろん、こうしたイメージには単純化も含まれる。だが重要なのは、その語られ方そのものがクラブの感情構造を形づくってきた点だ。実態が完全に一致していたかどうか以上に、「自分たちは恵まれた側ではない」という意識がアトレティコの輪郭を濃くしてきた。

エル・プーパス(El Pupas)という自己像も、その文脈で理解したい。不運なクラブ、あと一歩で届かないクラブ。この感覚はアトレティコの内側に古くから存在していた。1960年代にはすでに会長や選手が「運は赤白の服を着ない」と嘆いていた記録がある。そして1974年、ヨーロッパカップ決勝でバイエルン・ミュンヘンに土壇場で追いつかれ、再試合で敗れた夜、その感覚はひとつの呼び名として広く定着した。「Somos El Pupas」──試合後のロッカールームでDFカポンが漏らしたとされるこの一言が、以後クラブにつきまとう呼び名になった。外部からの蔑称ではない。クラブの内側から漏れ出た嘆きが、そのまま固有名詞になってしまったのである。

だがこの呼び名は、単なる弱さの記号としては機能しなかった。むしろ、傷を引き受けたまま立ち続ける共同体の旗印に近づいていった。多くのビッグクラブが勝利で自分たちを説明するのに対し、アトレティコは、報われなさを含めてなお自分たちであり続けることを身につけた。

勝つから愛されるクラブではなかった。勝てなくても離れないことによって、愛着が深まっていくクラブだった。その愛着の質が、後の“嫌な相手”という輪郭の土台になっていく。

第2章 ── 耐えることの美学

アトレティコが他の強豪と少し違って見えるのは、何を美しいと感じるかが異なるからだ。

多くのビッグクラブは、支配することに価値を見出す。試合を掌握し、主導権を握り、相手を自分たちの設計図に従わせる。その強さは確かに魅力的だ。一方でアトレティコは、少し別のところに誇りを置いてきた。苦しい時間を耐えること。押し込まれても顔つきを崩さないこと。思い通りにならない試合を、最後まで思い通りにさせないこと。

その価値観を凝縮した言葉が、クラブのモットーとして広く知られる「Coraje y Corazón(勇気と心)」だろう。メトロポリターノの象徴的なサインとして掲げられ、クラブ公式にもアイデンティティを要約する言葉として繰り返し用いられてきたこのフレーズは、単なる気合いの飾り文句では終わらない。チームアンセムにも織り込まれたこの言葉は、苦境でこそ自分たちの顔を失わないこと、試合が濁ったときほどその濁りを引き受けられることを示している。

だからこのクラブの勝利は、しばしば快勝には見えにくい。華麗に上回ったというより、相手の良さを曇らせた末に拾う。内容を支配したというより、相手の歯車を一つずつ外した結果として残る。そこにあるのは、自分たちの長所を誇示する快楽ではなく、相手の長所を機能停止させることへの執着だ。

この視点に立つと、アトレティコの嫌らしさは外から貼られたレッテルではなくなる。クラブの内側から肯定されてきた価値観であり、かなり本質に近い自己表現なのだろう。

第3章 ── シメオネは、その感情を戦術に翻訳した

ディエゴ・シメオネ以前にも、アトレティコには反骨の匂いがあった。ただし、それは感情として存在していても、戦い方として毎週再現できる形にはなりきっていなかった。

シメオネが変えたのはそこだった。クラブに魂を与えたというより、すでに存在していた気質を、反復可能なサッカーへと変換した。反骨心、不遇の記憶、共同体としてのしぶとさ。それらを感傷にとどめず、守備原則と試合運びにまで落とし込んだのである。

その結果として生まれたのが、いわゆるチョリスモ(Cholismo)だった。もっとも、これを単純に「低い位置で守る4-4-2」とだけ理解すると、本質を取り逃がす。確かにそれは原風景のひとつだろう。中央を閉じ、スライドを揃え、奪えば鋭く刺す。しかし核にあるのは、フォーメーションでもラインの高さでもない。

本質は、相手に快適さを許さない秩序にある。

中央は簡単に渡さない。外に追い込んでも自由にはさせない。奪った後も息を整えさせない。試合のテンポを、自分たちの体温にまで引き下ろす。一つひとつは地味だが、積み重なると確実に相手を消耗させる。アトレティコの厄介さは感情的な荒さではなく、こうした細部の継続から生まれている。

しかも厄介なのは、その細部が偶然ではないことだ。アトレティコは試合をただ耐えているのではなく、相手のリズムを壊すための工程を計画的に積み上げている。ここに、単なる気迫のチームでは終わらないシメオネ期の完成度がある。

シメオネはアトレティコの感情を整理し、再現可能な形にした。だからこのクラブは、気持ちが入った日だけ手強くなるのではない。平常運転のまま、相手にとって面倒な試合を作れてしまう。

第4章 ── 嫌がらせの方法だけが進化していく

近年のアトレティコを見ていると、昔のイメージだけでは説明しにくい場面が増えている。以前ほど単純に引いて守るだけのチームではない。保持する時間が増え、前から圧力をかける局面もあり、相手に応じて立ち位置を変える柔軟さも備わった。

ここで重要なのは、アトレティコが別のチームになったわけではないということだ。変わったのは理念ではない。相手を苦しめるための手段である。

かつては、低い位置で構えて耐え、奪って刺すことが最大の武器だった。今はそれに加えて、保持でじらし、可変で捕まえにくくし、前線から相手のビルドアップに圧力をかけることもできる。嫌らしさのメニューが増えたチームだ。

この変化がもたらした影響は大きい。かつてのアトレティコは、何を狙ってくるかの輪郭が比較的はっきりしていた。対策の方向性は見えやすかった。しかし今のアトレティコは、どこで不快になるかが一つに定まらない。低い位置でも苦しい。高い位置でも苦しい。ボールを持っても苦しい。持たなくても苦しい。対策してもなお、別の角度から神経を削られる。

だから相手は、準備しても楽にならない。引いてくるなら引いてくるで面倒だし、前から来るなら来るで嫌だ。目的だけが一貫し、手段だけが更新されていく。アトレティコに対する「嫌だな」という感覚は、特定の戦術への嫌悪ではなく、試合全体を通じて居場所を奪われる不快さに近い。

第5章 ── 敗北すら物語に変えてしまうクラブ

このクラブの面倒さは、勝っている時だけに現れるわけではない。むしろ、負けた時にこそ輪郭が濃くなることがある。

2014年チャンピオンズリーグ決勝。リスボンの夜、アトレティコは後半アディショナルタイムの93分まで1-0でリードしていた。あと数十秒で欧州の頂点に届くはずだった。セルヒオ・ラモスのヘディングがそれを砕き、延長戦で力尽きた。2年後のミラノでも、同じ相手にPK戦で敗れた。エル・プーパスの亡霊がふたたび囁いた夜だった。

だがアトレティコは、そこで壊れなかった。

多くのビッグクラブにとって、敗北は自己像を傷つける。本来あるべき姿からの逸脱として処理される。だがアトレティコには、それとは異なる回路がある。報われない記憶、あと一歩届かなかった歴史、何度でも傷ついてきた経験。それらがすでにアイデンティティの一部であるからこそ、敗北が共同体の結束を壊すのではなく、むしろ濃度を高める方向に働く。

もちろん、負けを肯定しているわけではない。ただ、敗北だけでは自分たちの物語が壊れにくいのだ。

相手にとって厄介なのは、その点でもある。一度勝てば終わる相手ではない。こちらが勝者であるはずの夜でも、どこか後味が悪い。アトレティコは、勝敗の結果だけでなく、試合の感情地形そのものを荒らしていく。

だからこのクラブは“嫌な相手”であり続けられる。勝つから嫌なのではない。負けてもなお、簡単には終わってくれないから嫌なのだろう。試合の中でも、試合の後でも、相手にすっきりした気分を残さない。その粘度こそが、アトレティコの歴史と文化に最も整合的な強さだと言える。

おわりに

アトレティコ・デ・マドリードは、ただ相手に勝つクラブではない。相手が自分たちらしく振る舞う自由を奪い、試合そのものをアトレティコの色に染め上げるクラブである。

コルチョネロという呼び名も、エル・プーパスの記憶も、Coraje y Corazón というモットーも、そのための装飾ではない。クラブが長い時間をかけて抱え込み、育て、戦い方へと変えてきた自己像そのものだ。シメオネはそれを整理し、再現可能にした。だからアトレティコの嫌らしさは、単なるスタイルではなく文化になった。

華麗な強さではない。だが、もう一度やりたいとは思わせない強さ。それこそが、アトレティコ・デ・マドリードというクラブの輪郭なのだろう。

今日のチョリスモ実践
派手に勝つことだけが強さではない。相手の心地よさを奪う準備や、苦しい時間でも顔つきを崩さない粘りが、最後に試合の空気を変える。