はじめに ── 「もうひとりのメッシ」のベンチ
2023年6月10日、イスタンブール。UEFAチャンピオンズリーグ決勝、マンチェスター・シティ対インテル・ミラノ。シティがロドリのゴールで1‑0とリードし、トレブル(3冠)達成が目前に迫っていた。ベンチにはフリアン・アルバレスがいた。グアルディオラは後半に3枚の交代カードを切ったが、第4の審判が掲げるボードにアルバレスの背番号19が緑色で光ることはなかった。最終スコア1‑0。紙吹雪が舞うピッチを、アルバレスはウォームアップジャケットを羽織ったまま見つめていた。
シーズンを通じて49試合に出場し17ゴールを決めた23歳のアルゼンチン人は、クラブ史上最も重要な90分間をベンチで終えた。ワールドカップ優勝、コパ・リベルタドーレス優勝、そしてこの夜のCL優勝。史上初めてワールドカップとクラブの大陸トレブルを同一シーズンに制した選手という栄誉を手にしながら、その最後のピースが嵌まる瞬間にピッチの上にはいなかった。
後にアルバレスはこう振り返っている。「CL決勝では出場できなかった。準決勝でもあまりプレーできなかった。ああいう試合にこそ出たかった」。
この夜の記憶が、1年後の決断を理解する鍵になる。
第1章 ── パンパスの蜘蛛
フリアン・アルバレスは2000年1月31日、アルゼンチン・コルドバ州のカルチンに生まれた。人口約3,000人。コルドバ市から東へ100kmほどの、パンパ(大草原)の只中にある小さな町だ。
幼少期から地元クラブ「アトレティコ・カルチン」でボールを蹴った。兄弟たちは彼に「ラ・アラーニャ(La Araña)」というあだ名をつけた。「蜘蛛」。ボール捌きがあまりにも速く、まるで足が2本以上あるように見えたのだという。後にゴールを決めるたびにスパイダーマンの糸を撃つポーズをするセレブレーションの原点は、カルチンの庭先にある。
11歳のとき、アルバレスはボカ・ジュニアーズとリーベル・プレートの両方のトライアルを受けた。レアル・マドリードのユーストーナメントにも参加し、5試合で2得点を記録している。だが、年齢制限のためにレアルとの契約は実現しなかった。2016年、16歳でリーベル・プレートのアカデミーに正式加入。ここから「蜘蛛」の糸が、本格的に張り巡らされ始める。
リーベルでの成長は、名将マルセロ・ガジャルドの指導のもとで加速した。2018年10月27日、プリメーラ・ディビシオンのアルドシビ戦でトップチームデビュー。同年12月には、宿敵ボカとの2018コパ・リベルタドーレス決勝に途中出場し、南米制覇を経験している。18歳だった。
2021年はブレークスルーの年になる。アルバレスはリーグ戦18ゴールで得点王に輝き、リーベルのリーグ優勝に貢献した。南米年間最優秀選手賞を受賞。リーベルでの通算成績は122試合54ゴール。人口3,000人の町から出発した青年は、南米最高の選手になった。
第2章 ── ハーランドの影で
2022年1月31日——22歳の誕生日当日、マンチェスター・シティへの移籍が発表された。移籍金は約1,400万ポンド。シーズン終了までリーベルにローンで残り、2022年夏にイングランドへ渡った。
シティでの最初のシーズン(2022‑23)は、ひとつの矛盾を抱えていた。アルバレスはチームに不可欠な戦力だった。リーグ戦31試合9ゴール、公式戦全体で49試合17ゴール。だが、前線の「主役」はアーリング・ハーランドだった。ノルウェー人の怪物が52ゴールを量産するなかで、アルバレスの役割はあくまで「2番目の選択肢」だった。
2023‑24シーズン、状況は少し変わる。ケビン・デ・ブライネがハムストリングの重傷でシーズン前半戦を長期離脱し、グアルディオラはアルバレスを攻撃的MFとして起用し始めた。アルバレスはこの新しいポジションに見事に適応し、リーグ戦36試合11ゴール、公式戦全体で54試合19ゴールを記録。12月にはFIFAクラブ・ワールドカップ決勝のフルミネンセ戦で2ゴール1アシストを叩き出し、大会得点王に。バロンドール投票では7位に入った。
数字だけを見れば、十分な成功のように思える。だが、ハーランドとの序列は変わらなかった。グアルディオラのシステムにおいて、フリアン・アルバレスは「最高のバックアップ」であり「最高のユーティリティ」だった。あらゆるポジションをこなし、あらゆる状況で結果を出す。だが、チームの「顔」にはなれない。ワールドカップの英雄が、クラブではサブの日がある。その事実が、24歳の野心と噛み合わなくなっていた。
シティでの通算成績は103試合36ゴール。わずか2シーズンでプレミアリーグ2連覇、FAカップ、CL、クラブ・ワールドカップを制した。それでも、「ここでは天井がある」という感覚がアルバレスの中に芽生えていた。
第3章 ── なぜシメオネを選んだのか
2024年8月12日、アトレティコ・デ・マドリードはフリアン・アルバレスの獲得を正式発表した。契約期間6年、移籍金は固定額約7,500万ユーロに最大2,000万ユーロのボーナスを加えた約9,500万ユーロ。シティにとってはクラブ史上最高額の売却となった。
お披露目会見でアルバレスはこう語っている。「キャリアの中で変化が必要だと感じた。新しい挑戦を探さなければならなかった」。
この移籍には、いくつかの選択肢があったとされる。プレミアリーグに残る道、パリやバイエルンといった欧州の頂点を目指すクラブ。しかしアルバレスが選んだのは、ディエゴ・シメオネのアトレティコだった。
なぜか。理由はおそらく複合的だが、ひとつの仮説が浮かぶ。アルバレスの選手としてのDNAとシメオネの要求は、元から相性が良い。アルバレスはスピードと技術を持ちながら、守備を厭わない。プレスの先頭に立ち、中盤まで戻ってボールを奪いにいく。リーベル時代にガジャルドのもとで叩き込まれた「全員で守り、全員で攻める」という原則は、チョリスモとほとんど同義だ。
もうひとつ、より直接的な動機がある。「チームの中心」になること。シティではハーランドの影にいた。アトレティコでは、2トップの片翼として、最初からスターターの座が約束されていた。34歳を迎えるグリーズマンの出場時間は管理され始めており、次の時代の軸となるFWが必要とされていた。アルバレスにとって、それは「最高のバックアップ」から「最高の主役」への転換を意味した。
第4章 ── 29ゴールの初年度
2024‑25シーズン、アルバレスのアトレティコでの初年度は、数字が雄弁に物語っている。
ラ・リーガで37試合17ゴール4アシスト。公式戦全体では54試合29ゴール9アシスト。うちCLで7ゴール。初年度の選手としては破格の数字であり、シーズン終了後にはクラブの年間最優秀選手に選出された。
だが、アルバレスのアトレティコにおける真の価値は、ゴール数だけでは測れない。シメオネの戦術における役割を理解するには、彼がピッチ上で何をしているかを分解する必要がある。
シメオネの現在のシステムは、守備時5‑3‑2、攻撃時4‑4‑2を基本とするハイブリッド型だ(詳しくはコラム「シメオネ戦術進化論」を参照)。アルバレスは2トップの一角として、アレクサンデル・ソルロートとコンビを組む。だが、両者の役割は対照的だ。
ソルロートは身長195cmのターゲットマン。最前線でポストプレーを行い、相手CBをピン留めする。アルバレスの役割はその周囲を「蜘蛛の巣」のように動き回ることだ。ライン間に落ちてボールを受け、サイドに流れてクロスの起点を作り、ソルロートのポストプレーのこぼれ球に反応してゴール前に飛び込む。170cmの小柄な身体がCBの間をすり抜ける瞬間は、あだ名の通り「蜘蛛」そのものだ。
ソルロートとアルバレスの関係は、かつてのグリーズマンとディエゴ・コスタのそれに近い。大型FWが相手の守備を引き付け、技巧派が空いたスペースを使う。違いは、アルバレスがグリーズマンほど「ライン間の住人」ではない点だ。彼はライン間にも降りるが、ゴール前にも飛び込むし、サイドにも流れる。グリーズマンが「名前のないポジション」の選手だったとすれば、アルバレスは「すべてのポジション」の選手だ。どこにでもいる。どこからでも点を取る。
守備面も見逃せない。アルバレスはプレスの強度が極めて高い。シティ時代にグアルディオラのもとで磨かれたプレッシング技術に、シメオネの強度が加わった。2024‑25シーズンのラ・リーガにおいて、アルバレスのプレス回数はFWとしてはリーグ上位に位置していた。シメオネが選手に求める「走れ、戦え、犠牲になれ」を、アルバレスはごく自然にこなす。この点が、同じく大型移籍でアトレティコに加入しながらシメオネのスタイルに適応できなかったジョアン・フェリックス(2019年加入、1億2,600万ユーロ)との決定的な差だ。
第5章 ── 2年目の現在地
2025‑26シーズン、アルバレスは26歳になった。2月下旬時点でラ・リーガ25試合に出場し7ゴール3アシスト、公式戦全体では13ゴールを記録している。初年度の爆発力と比較するとペースはやや落ちているように見えるが、文脈を読む必要がある。
まず、チーム内での役割がさらに多様化している。ソルロートがラ・リーガで9ゴール(FotMob調べ)と好調を維持するなか、アルバレスにはより多くのゲームメイクが求められるようになった。パスやチャンスクリエイトの比重が増し、純粋なフィニッシャーとしてのタスクが分散されている。
次に、今季のアトレティコが複数のコンペティションを並行して戦っている点がある。ラ・リーガ、CL、コパ・デル・レイ。ローテーションの中でアルバレスの出場時間は管理されており、25試合で約1,700分。1試合あたり平均約68分のプレー時間は、フル稼働とは言い難い。だが、これはシメオネが長期的にアルバレスを消耗させまいとしているサインでもある。
さらに目を引くのが、ジュリアーノ・シメオネやアレックス・バエナといった新世代との共存だ。アルバレスは彼らと流動的にポジションを入れ替えながら、攻撃のユニットとして機能しようとしており、アルバレスの活動範囲はさらに広がっている。
シティでは「2番目の選択肢」だった。アトレティコでは「最初の選択肢」になり、今は「最初の選択肢であり続けながら、チーム全体の攻撃を設計する中心」へと進化しつつある。ルックマンやソルロートの好調の裏で、その過渡期にあるのが、2年目の現在地だ。
おわりに ── チョリスモに染まるということ
フリアン・アルバレスのキャリアを振り返ると、ひとつのパターンが見える。常に「次」を選び続けてきたことだ。
カルチンからリーベルへ。リーベルからシティへ。シティからアトレティコへ。それぞれの場所で結果を残し、それぞれの場所に安住しなかった。ワールドカップのメダルもCLのメダルも持っている。それでも、ベンチに座り続ける未来を選ばなかった。
シメオネの哲学に「染まる」とはどういうことか。それはフォーメーションの問題ではない。守備的であることの問題でもない。「チームのために自分の才能を最も効率的に使い切る」ことだ。アルバレスは、カルチンの小さなピッチで身につけた「どこでも走り、どこでも闘う」という姿勢を、グアルディオラの元で洗練させ、シメオネの元で完成させようとしている。
2026年1月31日、アルバレスは26歳になった。FWとしてのピークはこれからだ。リーベルで122試合54ゴール、シティで103試合36ゴール、アトレティコで2シーズン目の途中までに通算42ゴール。数字は着実に積み上がっている。だが、アルバレスの真価が問われるのは、アトレティコにタイトルをもたらせるかどうかだ。
イスタンブールの夜、ベンチから見上げた紙吹雪の景色を、今度はピッチの上から見る。フリアン・アルバレスがアトレティコを選んだ理由は、おそらくそこに集約される。