スタジアムは2020年に解体され、跡地は公園になった

アトレティコ・デ・マドリードが2017年まで本拠地にしていたエスタディオ・ビセンテ・カルデロンは解体され、最後まで立っていたスタンドが取り壊されたのは2020年7月初めだった。ピッチがあった場所はいま「パルケ・アトレティコ・デ・マドリード」(Parque Atlético de Madrid)という公園になっていて、2024年12月9日に開園式が行われた。センターだった地点の地中にはタイムカプセルが埋められ、その上に記念の石板がある。公園へはメトロ5号線で行ける。跡地で見られるもののほか、メインスタンドの下を高速道路が通っていた造りや「最後の試合」が一つに決まらない理由も、以下で紹介する。

跡地一帯は、マンサナーレス川沿いに続く公園マドリード・リオの最後の区間として整備されたもので、パルケ・アトレティコ・デ・マドリードはその中央部分にあたる。

このスタジアムは、メインスタンドの下をM-30(マドリードの環状高速道路)がくぐる造りだった。道路のその区間はいまふたをかけられてトンネルになり、上には公園が載っている。市が2021年に業者を決めた工事は、長さ620メートルにわたって道路を覆うものだった。

跡地で見られるのは、細長い芝生とセンターの記念の石板

公園の工事は67,000平方メートルを超える範囲に及び、1,200本以上の木が植えられた。M-30にふたをしたことで地面の高さが3段に分かれ、公園もそれに合わせて三つの区画になっている。

いちばん川寄りの区画は、M-30を覆った床の上にそのまま作られた。松林の中を自転車道が曲がりながら抜け、北と南のマドリード・リオにつながっていて、サン・イシドロ橋からも入れる。メインスタンドの下を走っていたM-30は、いまはこの松林の下にある。

スタジアムがあった中央の区画には、両端が丸くなった細長い芝生の広場が作られた。市はこの形をローマの競技場にたとえ、かつてサッカー場だった場所の「見せ物の場」としての性格を思い起こさせるものだと説明している。広場のまわりには木が3列に植えられ、広場を3レーンのランニング用トラックが囲んでいる。陸上の公認コースではない。

タイムカプセルは、開園式の日に市長のホセ・ルイス・マルティネス=アルメイダや会長のエンリケ・セレソ、クラブのレジェンドのアデラルドらが品物を入れ、地中に埋めた。市とクラブが発表した品目は一部食い違うが、両方の一覧に載っているのは、スタンドの座席、石、芝の一片、クラブの旗とユニフォーム、スタジアム最初のゴールの写真、最初の試合のポスターである。石板には、スタジアムの姿と「1966-2017」の年が刻まれている。

公園のまわりは「Mahou-Calderón(マオウ・カルデロン)」と呼ばれる再開発区域で、土地はアトレティコとビール会社のマオウが持っていた。2018年12月に市、クラブ、マオウの三者が開発の段取りを決める協定を結び、そのときの計画では、建築できる床面積の大半が住宅用途に割り当てられていた。

最寄り駅はメトロ5号線のピラミデスとマルケス・デ・バディージョ

esMadrid(マドリード市の観光局)は、最寄り駅としてメトロ5号線のマルケス・デ・バディージョ(Marqués de Vadillo)とピラミデス(Pirámides)を挙げている。ピラミデスには近郊線のセルカニアスも止まる。住所の表記はPaseo de la Virgen del Puerto, 67。バスも17番、18番、23番など多くの路線が通っている。

メトロポリターノのスタジアムツアーと跡地を同じ日に回る順番は、「試合がない日、アトレティコのファンはマドリードで何をするか」で紹介している。試合がある日の過ごし方は「アトレティコ観戦日のマドリードガイド」で案内している。

メインスタンドの下を高速道路が通るスタジアムだった

スタジアムの開場は1966年10月2日で、当時の名前は「エスタディオ・マンサナーレス」だった。こけら落としのバレンシア戦は1-1で、このスタジアムで最初のゴールを決めたのはルイス・アラゴネスである。

名前がビセンテ・カルデロンに変わったのは1971年7月14日。改修を終えての再開場は1972年5月23日、スペイン代表とウルグアイ代表の親善試合だった。改名を1972年とする資料もあるが、1972年は再開場の年である。名前のもとになった会長の人物像は、「ビセンテ・カルデロンという男」で詳しく説明している。

設計した建築家たちには、下を通るM-30をまたがなければならないという難題があった。スタンドは、道路にかからないU字形の部分と、川に面した西側で道路の上に載るメインスタンドに分かれていた。

リーガの公式サイトは、主要な欧州リーグで初めて全席が座席になったスタジアムだったと紹介している。収容人数は資料によって数字がかなり違い、開場時は62,000人とも66,000人とも書かれているが、その後安全上の理由で減らされ、約55,000人になった。

アトレティコの試合以外にも、大きな試合が開かれた。1982年のワールドカップでは2次リーグの3試合が行われ、コパ・デル・レイの決勝は1973年から2017年までに14回開かれている。1975年の決勝はレアル・マドリード対アトレティコで、0-0からのPK戦でレアルが勝った。アトレティコは自分たちのスタジアムで、宿敵が優勝するのを見ることになった。マイケル・ジャクソンやマドンナ、ローリング・ストーンズのコンサートが開かれたのもこのスタジアムである。

「最後の試合」は三つあり、最後の一般公開はさらに後だった

カルデロンの「最後の試合」には、いくつもの日付がある。指している試合がそれぞれ違うからだ。

アトレティコの最後の公式戦は、2017年5月21日のリーガ最終節、アスレティック・クラブ戦だった。フェルナンド・トーレスが2点を決め、終盤にアンヘル・コレアが加えて3-1。試合後には、スタジアムとクラブの歴代の選手たちをたたえる式典が行われた。

スタジアムとしての最後の公式戦は、その6日後、5月27日のコパ・デル・レイ決勝である。バルセロナがアラベスに3-1で勝った。

翌28日には、アトレティコのレジェンドと世界各国のスター選手による試合が行われた。これがこのピッチで行われた最後の試合で、最後のゴールを決めたのは下部組織育ちのペドラサだった。

一般の人がスタジアムに入れた最後の日は、2017年9月30日だ。夏のあいだ続いていたスタジアム見学と博物館の公開がこの日で終わり、最終日だけで4,000人近くが訪れた。夏のあいだに、3,200人近くがゴールに向かってPKを蹴っている。新しいスタジアムは、その2週間前にもう開場していた。

スタジアムを離れたあと、クラブは希望する年間会員に自分の座席を持ち帰れるようにした。スタジアムの納骨堂に眠っていたファンの遺灰も、南側のスタンドを崩す前にメトロポリターノへ移されたと報じられている。

解体は2019年2月に始まり、道路にかからない部分のスタンドから崩していった。2019年11月には、ピッチだった場所にM-30の仮の迂回路が設けられた。車をそちらに移したうえで、もとのM-30の上に立っていた西側のメインスタンドの取り壊しに入った。近くに住宅が多いため、爆薬は使わず重機で砕いている。解体で出た材料は、公園を造るときの埋め戻しにも使われた。

二つのメトロポリターノのあいだにあった51年

新しい本拠地は、2017年9月16日のリーガ第4節マラガ戦で開場した。61分にアントワーヌ・グリーズマンが決めて1-0。試合前の開場式では、レティーロ、オドネル、メトロポリターノ、ビセンテ・カルデロンと、クラブがこれまで使ってきたスタジアムに敬意が表された。

「メトロポリターノ」という名前の本拠地は、以前にもあった。アトレティコが1923年から1966年まで使っていたスタジアムで、建っていた土地の持ち主が、マドリード最初の地下鉄網を作った都市開発会社コンパニア・ウルバニサドラ・メトロポリターナだったことから、この名前が付いた。マドリード市の広報は、これを「最初のメトロポリターノ」と呼んでいる。旧スタジアムはカルデロンへの移転のあとに取り壊された。カルデロンの51年は、二つのメトロポリターノのあいだにはさまれていたことになる。いまの本拠地リヤド・エア・メトロポリターノについては「初めてのメトロポリターノ完全ガイド」で解説している。

筆者はカルデロンで試合を見たことがない。それでも、51年使われたスタジアムが、スタンドを一つも残さず取り壊されたことには寂しさがある。ただ、跡地のことを調べていくと、残ったものもあった。ピッチがあった場所は公園になり、センターだった地点の下にはスタンドの座席と芝のかけらが埋まっている。家に座席を持ち帰ったファンもいる。

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